第3章 川崎映画街

1957昭和32年

川崎映画街の拡充

戦後復興で加速する
美須のビジネス

テレビ事業を立ち上げる一方で、川崎映画街を強化するため、映画館事業にも積極的に取り組んだ。日米テレビを設立すると同時に、映画街を更に発展させるための構想にも着手していく。 舞台を備えた劇場や、客席数が1000席の大劇場など、次々と建設した。新聞社と共同で「川崎市民映画コンクール」を開催し、銀幕を飾るトップスターたちが毎年川崎映画街の舞台に立つようになった。また、昭和29年から、年に数回おこなう実演興行にも力を入れる。 実演興行とは、人気の歌手やバンドが実際にステージで実演を行ない、その後の映画上映とパッケージにした興行であり、この為にも大きなステージとたくさんの客席が必要であった。テレビの普及に対抗して、映画館は映画を観るだけではなく、実演と複合することによって、映画館に来なければ体験できない娯楽を極めていった。
終戦直後に復興して間もない頃、映画館が6館だった川崎映画街は、昭和30年には12館になっていた。川崎、蒲田、その他の地域をすべて含めると、美須の映画館は合計で27館になっていた。映画館以外に、洋裁、タイプ、経理のビジネススクール美須学院、結婚式場や500名収容の大宴会場を備えたホテルの川崎会館、そして日米テレビの三つの事業も順調であった。
映画館事業を基本の軸とした美須の事業は、映画黄金期のこの時代に絶好調を極める。

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当時のトップスター三橋美智也による
実演ショーの会場周辺の混雑(昭和31年)

川崎市民映画コンクール授賞式の様子
登壇者は石原裕次郎(昭和32年)

当時の川崎映画街の賑わい(昭和36年)

映画館を27館運営していた当時の新聞広告
(昭和30年)

1958昭和33年

高度経済成長期

多様化していく社会を読み取り
エンタテイメントビジネスを牽引

「もはや戦後ではない」戦後復興から高度経済成長期に移り変わり、国民の暮らしが豊かになるにつれて、映画産業の斜陽化が加速する。娯楽の王座に君臨していた映画は、多様化する世の中でテレビを始め他の娯楽に圧倒され、好調だった美須の事業も苦境の時代へと突入していく。この時、デザインの勉強をするためにしばらく渡米していた長女の美須君江が帰国し、経営に参画して美須鑛を助けていく。
美須君江は、人々の暮らしが豊かになっていくという事は、それに合わせて娯楽事業も多様化する事が必要であると考え、新規事業を企画した。渡米生活での経験を活かし、日本にはない文化を実現させる事を考えた。アメリカ人の豊かな暮らしにある日常の娯楽を導入することで、高度経済成長期で疲弊している日本の労働者の心を掴めると考え、川崎美須映画街に経済効果の高い大人向けのレジャーを導入する事に取り組んでいく。
欧米人はプライベートの時間をとても大切にしており、仕事が終わると男性も女性も、ナイトクラブや豪華なショーがあるキャバレーに気軽に行って、毎日をエンジョイしている。働き過ぎの日本人に必要な事は、このようにバラエティーに富んだ毎日を心豊かに過ごす事であると考え、バーやクラブ、ダンスホールなど次々と導入して、大人の社交場に力を入れていった。こうして美須映画街には、老若男女問わず、すべての人たちに満足してもらえる娯楽が集積していった。 昼間は映画を観に訪れた人たちで賑わい、日が暮れてネオンが幾重にも瞬きだすと街は一変し、仕事の疲れを発散させる労働者の活気で溢れ、夜の美須街はエネルギッシュに賑わうようになった。そして、昭和36年に近代建築技術の粋を集めてオープンしたシアターキャバレー「グランドオスカー」は、毎晩豪華絢爛なショーと300人のホステスがもてなす紳士たちの社交の場として華々しく街を彩った。こうして川崎映画街は、昼夜問わない一大歓楽街に変貌していった。

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300人のホステスを擁したシアター
キャバレー「グランドオスカー」

「グランドオスカー」チラシ。
美川憲一、淡谷のり子、春日八郎など
昭和のビッグスターが連夜ショーを繰り広げていた。

1964昭和39年

美須映画街からミスタウンへ

日本経済の発展と共に
エンタテイメントビジネスの更なる発展

美須君江は攻勢の手を緩めなかった。駅前の好立地を生かし、映画を含めてレジャー業種を一定構成のもとに集積する都市型レジャーの構想を進めた。
キャバレーの次は、アメリカでブームになっていたボウリングに目を付けた。ボウリング場は日本に於けるスポーツ施設産業のはしりと言われている。まだ日本でほとんど浸透していなかった昭和39年に、川崎映画街の一角にボウリング場をオープンした。それからしばらくすると、日本でも徐々にボウリングが知れ渡るようになり、5年後の昭和44年に、日本でも遂に女子プロボウラーが誕生した。テレビ番組やCMで毎日のようにボウリングの様子が放送されるようになり、日本中が一気にボウリングブームで沸騰した。この時にはすでに、美須のボウリング場は昭和43年に板橋区の成増、昭和44年には横浜市の上大岡など、他の地区に進出していた。蒲田映画街の一部の映画館もボウリング場に建て替えた。
更に、ボウリング事業と同時並行で計画していたスポーツ施設事業として、川崎美須街の一部の映画館を淘汰して、スポーツセンターに建て替えた。昭和40年の冬にスケートリンクとして開業し、夏になるとマンモスプールとして営業した。
昭和43年、川崎駅前の「美須映画街」は「ミスタウン」となり、映画館だけでなく家族で楽しめるボウリング場やスポーツ施設、大人が楽しめるダンスホールやキャバレーなど、昼夜を問わない総合レジャー集積地として大きく変貌を遂げた。
多様化していく社会情勢の先を読み、躊躇なく実現していくことで、事業構造に相乗効果が生まれた。これにより減少していた事業収益を大きく伸ばすことが出来た。
この収益力の回復を踏まえた会社の将来構想として、映画館を軸にしたエンタテイメント事業を中心としていくか、日米テレビのテレビ製造販売事業との二足の草鞋を履くか、方針を決める事となり、お家芸の映画館を軸にしたエンタテイメント事業に絞る道を選択する。これ以上、大手家電メーカーがしのぎを削るテレビ事業に深入りする事は、将来的に大きなリスクとなるため「日米テレビ」は昭和44年に解散する。 また、ボウリング場事業もブームの過熱により、日本中の需要を供給がはるかに上回り飽和市場となったため、川崎の一部と蒲田を残し潔く撤退した。事業の将来性を見極める判断も早く確実だった。
大手の映画会社が倒産する事態にまでなった映画の斜陽化の波、会社の将来を危ぶむ苦境を逆手に取り、美須君江の采配で事業拡大、収益力アップで乗り越えることができた。美須君江もまた、数々の成功実績を作り上げ、トップの実業家として昇り詰めていった。この成功は、自社だけではなく、地元川崎の周辺に与えた経済効果も計り知れないものがあった。

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ブームに先駆けて参入したボウリング
事業の第一号店「ミスボウル」
(昭和39年)

夏はマンモスプール、冬はスケート
リンクとして営業した
「ミススポーツセンター」(昭和40年)

昭和40年代の「ミスタウン」の様子

「ミススポーツセンター」
プール開きのポスター 
(昭和41年)

1987昭和62年

チネチッタ誕生さらなる進化を

日本映画興行ビジネスに
一大革命

高度成長期に建てた数々の映画館は30年以上が経過して、徐々に老朽化が進んでいた。また、一世を風靡し夜を賑わしたキャバレーなどは、移り気な日本人の文化の中で色褪せていき、他のエンタテイメントにとって代わるようになっていた。時代と共に幾度となく来る苦難に立ち向かい、その度に乗り越えて発展してきた美須の事業も、次の時代の更なる波が押し寄せて転換期を迎えようとしていた。
昭和50年を過ぎると、映画館の宿敵が登場する。テレビの次は家庭用ビデオデッキである。すでにテレビは生活の一部として当たり前に存在していたが、テレビで放送される番組は、その時にテレビの前にいないと観ることが出来ないという、送り手からの意図で受動的に与えられるものであった。 これが録画する事によって、後から好きな時にゆっくり観られることや、気に入ったものは何度でも繰り返し楽しめるようになった。そして、これに合わせて映画のビデオソフトが販売されるようになり、映画館に行かなくても、お気に入りの映画を家に居て何度でも楽しめるようになった。これで生活における映像という文化が劇的に変わった。 これがホームビデオといわれるようになり、普及が進むとレンタルビデオ店が街のいたる所に乱立し、更にビデオデッキの普及に拍車をかけた。こうなると映画鑑賞人口は増えたが、映画館に足を運ばなくても、自宅で好きなことをしながら観られるという新しい生活習慣が浸透していき、映画館としては深刻な問題を抱えることになる。
ミスタウンの老朽化した映画館では、この新しい生活文化に勝負が出来なくなっていた。
エンタテイメントで街の文化や賑わいを牽引してきた事で、地元や行政からの期待は大きなものがあった。しかし、娯楽が満ち溢れた世の中で、更なる巻き返しを図るには、かなりのエネルギーが必要となるため、美須君江は会社の将来を一人娘の美須孝子に託そうと期待を寄せた。美須君江は高度成長期を切り開いて事業を成功に導いたが、美須孝子は家族だからこそ知るそんな母親の苦労を見てきたので躊躇した。
この時すでに、美須孝子は3人の子育てをし、イタリア人外交官の妻として公式行事をこなしながら、世界的ファッションブランド「FENDI」の日本PR代表を務めていた。この上さらに、街の原動力となっているエンタテイメント事業を受け継ぐ決心をすることは容易ではなかった。しかし、家業である映画館事業がまたしても厳しい局面にあったため、本業での巻き返しで真っ向勝負に出る事を決意する。
まず、映画ビジネスにおけるエンタテイメントの本場ロサンゼルスに飛び、その神髄を研究した。そして、開発プロジェクトを立ち上げ、ファッション界の重鎮やデザイナー、建築家たちを招き入れて、これまでとは全く別の切り口で、感性を重視したビジネスプランをもとに開発計画を立てた。
昭和62年(1987)日本にはまだ存在しなかった本格的な大型シネマコンプレックスを創った。「チネチッタ」の誕生である。このことによって、これまでの日本の映画館ビジネスの価値観を革命的に変化させた。
さらに美須家の血が騒ぎだし、翌年の昭和63年(1988)にはライブホールの「クラブチッタ」をオープンさせる。

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多彩なレスランも入居していた
日本初の大型シネコン「チネチッタ」
昭和62年(1987)

後の日本のライブシーンに多大な影響を
与えたライブホール「クラブチッタ」誕生
昭和63年(1988)

「チネチッタ」のこけら落としは
「フェデリコ・フェリーニ」監督の
「インテルビスタ」特別試写会

クラブチッタオープン時のフライヤー。
記念すべきこけら落としは久保田利伸さん